書籍紹介/感想
天風三部作は一万円本であり、かつボリュームもあるので、手始めにこの一冊をお勧めします。みんな大好きクンバハカが一番詳しく説明されています。
第一章:六つの力
ロックフェラー三世との問答
「先生、アメリカに来てくださいっていうのを決してやめません」
(第一章より抜粋)
「何があなたの一番の煩悶だい」
「今現在、私、いくら持っているかわからないのがいちばん苦痛です」
「初めてお目に掛かった時、ああいうような価値のないお答えをしましたが、このごろは夫婦でよくこういうことが不幸だということを語り合います」
「このごろの我々夫婦は、本当にいかなる場合であっても、魂が潤って、命が豊かな力で生きていくということが必要である以上、これが乏しいことが一番の悶えです。この悶えを癒してくれるのは、世界の中であなた一人だということを、あなたの記憶の中にはっきり、落とさないで持っていて下さい(Do not drop)」
人生の三大不幸:病と煩悶と貧乏
病と、煩悶と、貧乏のない人生というものは豊かな人生ですぜ。
万物の霊長、この世の中に貧乏しに来たり、煩悶しに来たり、病患いに来たりしたんじゃありゃしねえ。人この世に生まれたのは、進化向上という偉大な宇宙の本来の面目に即応するためだ。
病も知らない、貧乏も知らない、煩悶も知らない、よくそれらのものを克服して、自分の幸福を嘆美するような人間になるのには、なるために必要な資格を作らなきゃ駄目なの。どういう資格条件が必要かというと、六つの力の内容量を豊富にしなければいけない。
六つの力
(第一章より抜粋)
- 体力
- 胆力
- 判断力
- 断行力
- 精力
- 能力
これらの力を完全に目的通り内容量を豊富にする方法 ⇨ 心身統一法
第二章:心身統一の根本義
現代人の生き方をじっと見てみると、おおむねは肉体本意か、さもなきゃ精神本意か、いずれかにその生活の重点が傾き過ぎているという傾向がある。心身の統一が人間の本来の面目か否かということは、常識で考えてもわかるでしょう?
いつまでも神や仏に依頼するという気持ちばかり持っていれば、勢い、その人間は、憐れな、ひとり立ちのできない人間で終わることを余儀なくされてしまう。
心の持ち方:積極的な心の持ち方
(第二章より抜粋)
心の使い方:常に観念を集中する
肉体の生き方:常に自然法則に順応させる
肉体の使い方:常に訓練的に積極化させる
肉体生命維持の三大条件
- 呼吸の作用(肺呼吸)
- 影響の吸収作用(血液循環)
- 老廃物の排泄作用(各臓器の運営される作用)
この三つの条件が完全に営まれている限りは、肉体はどこまでいっても完全であり能うのであります。ところが、この三大条件は、心がこれを行わせているんだから、心の態度が積極的で無くなると、この三大条件にも、調子の乱れが出てくる。
五臓六腑を動かしているものは何だというと、神経系統。これが大事なんだ。大事な神経系等の生活機能を本当に頼もしい強さにするのには、直接的には中枢神経(大脳、小脳、延髄)が強くなきゃ駄目。中枢神経には心の働きを行うものが入っている。
今まで肉体は肉体、心は心と別々に考えていたが、生命の生きている状態をひそかに分析的に解剖的に考えてみると、何だ、一切合切、心が行っているんじゃないかと。
人間が怒ったり、怖れたり、悲しんだりすると、すぐ命を守る作用の中でもいちばん大事に考えなきゃならない血液とリンパというものが、みるみる劣悪になるんであります。
(第二章より抜粋)
「健全な肉体に健全な精神宿る」ではなく、「健全な精神が健全な肉体を作る」
健全な精神 ⇨ 感応性能を強くする
- 観念要素の更改
- 積極観念の養成
- 神経反射の調節
第三章:観念要素の更改(心の倉庫の掃除法)
バイブルを読んでみても、お経を紐解いてみても、アラーの青天を読んでみても、ただ言い方の相違、言い回しの作り方の相違だけでもって、結論は結局、心を常に清く強く正しく麗しく持てというところに、いつもその重点が置かれている。だとすれば、問題はここです。
もう何千年も前から、人生を考える者は心の重大性に感付いていながら、なぜ私が昨晩あなた方に申し上げたような、心を本当に正しく強く尊く麗しくするのに必要な方法というものを考えだしていなかったかという点であります。
寝際の人間の気持ちは、いわゆる実在意識は批判を乗り越えて、その時にちょいと思ったこと、考えたことは、それを否定する間もなく肯定する間もなく、例えて言えば電流の通ずるように素早く、潜在意識に同化力を働かせちゃうんです。寝際だけは心に重荷を負わせないというこの気持ちこそ、まことに観念要素の更改の秘訣であります。
鏡を使った信念強化法
鏡を顔に映して、映った顔の眉間のところにじっと真剣に見て一言、「おまえ信念強くなる」、明くる日目が覚めたら、あまりあれこれものを言わないうちに、この鏡に与えた暗示をもう一編。昼間、人生に行き行く際にも何かで心緩むことがある。何かのことで心が弱ったようじ直感した時には、「おれ信念強いんだ」って言う。消極的な言葉を使わない。それには、普段、不平不満を言わないようにしろ。そして、心の積極的な人と接する。
(第三章より抜粋)
第四章:積極精神の養成
豊臣太閤秀吉の出世物語のように、何事にもベストを尽くす
織田信長と柴田勝家の問答
「サルのお取り立て、釣り合いがちょっと違うように考えますがいかがでござりましょう」
「そちもそう思うか」
「いや家中みんなそう思っております」
「そうか、わしの家に幾人もの人間がいる中で、あの人間を本当に見込んでいるのはわしだけかのう」
「しかし一体いかなる点をお見込みになりましたのでござりましょうか」
「あれはのう、何をさせても一心じゃ。何をさせても真心じゃ」つまり、「何をさせてもベストを尽くす」というのですね。草履取りをさせたら、草履取りとしての本分を全くそつなく傷なくやってくれる。すぐに取り立てて共侍にすれば、共侍としての食分をこれから先も乱さない。槍一筋を与えてやれば、槍一筋を与えられただけの職分を尽くす。大名にしてやれば、大名として抜かりなく、そつなく仕事をする。何をさせてもあれば嫌だ、これは嫌だと言うことはない。どんな卑しい仕事をさせても、どんな尊い仕事をさせても、同じ気持ちでやってくれる。この人間を見込まずにいられるか、というのです。
(第四章より抜粋)
第五章:神経反射の調節
積極的な観念の養成法
①自分の心の態度は積極か消極か(内省検討)
人生に生きる刹那刹那、些細な仕事をする時でも、重大な仕事をする時でも、その仕事に対して自分が今どんな気持ちを持っているかを自分で検査する。②人の言動に左右されない(暗示の分析)
いい言葉に動かされるならいいけれども消極的な言葉に動かされたら元気がなくなっちゃう。燃えようとする火に水をぶっかけるのと同じ結果が来ちゃう。③積極的な態度で人と交わる
自分だけではなく、人にもベストを尽くそうという気持ちを持たせる。④取越苦労厳禁
当たって砕けろと言う言葉が一番いいんだ。石橋を金で叩いてるような、薄い氷の上をおっかなびっくり渡ってるような人生を生きてたら、そのままあなた方の人生は萎縮しちまうぜ。空気の抜けた風船みたいになっちゃう、どんなに学問しようが、どんなに経験積もうが。⑤正義の実行(本心良心に背かない)
(第五章より抜粋)
門下生だった松下幸之助の話し
今、日本一の電気業者となっている人(松下幸之助)が若い時から私のお弟子でいたんであります。
一番最初は、裏町屋を三軒借りて仕事を始めた。電信柱なんかについてる碍子、あれの荷造りをする下請けをやってたんです。私の話しを聞いて、感ずるところがあったんでしょうな。自分ではそれまではただもう卑しい仕事をしてるとしか考えてなかったらしい。
ところが、私が「まず第一番に自分の仕事に対する本当の尊敬の念を抱かなきゃならん」と言った。それ、本当ですよ。靴ひとつ磨いたからとて、桶ひとつ洗ったからとて、自分のしてる仕事に対しては自分自身が尊厳を払わなきゃ。
この人、しばしば新聞や雑誌に出るんですが、「今、私はここの会長ではありますけども、この仕事だけは営業部長のつもりでやっております」って言ってるんです。誠心誠意なんですから、この人は。
(第五章より抜粋)
息の合間合間に尻肩腹三位一体(クンバハカ密法)
「息の合間合間にひょいと体を水を入れた徳利(水筒)のようにして、したと同時に瞬間息を止めろ。これがクンバハカだ」
「Stop in a breath. Holding the body just the water bottle internally and externally. Which is called as Kumvaphacca.」「息の出し入れの合間合間に息を止めろ」ということは、これはわかりますよね。さて、わからないのが、「水を入れた徳利のように体を保て」ということなんだ。これが一年七ヵ月掛かったんだよ、私。結果は、まさに水を入れた徳利のようになる。どちらからプレッシャーを与えても、水を入れた徳利のように不平均な圧力を受けるところが無いという状態になる。
「水を入れた徳利のように」とはどうすることかと言えば、何のことはないんですよ。第一に肛門をキュッと締めるんだ。それと同時に肩をできるだけ緩める。そして、臍下丹田にグッと力を込める。その瞬間息を止める。それを息の出し入れにやりゃあいい。吸って止めて出して止めて、吸って止めて出して止める。
腹が立つことがあったり、おっかないことがあったり、悲しいことがあったり、心配があったり、煩悶があったり、悩みがあったり、あるいはまた人を憎んだり、妬んだり、嫉んだりするような気持ちが起こった時は、何をおいてもとりあえず、まず尻の穴を締めろ。
尻の穴を締めることを一番先に習慣づけなきゃだめよ。そして、いざ鎌倉、腹が立つとか恐ろしいとか悲しいとかいった感情刺激やショックが来たら、あるいはまた痛いとか痒いとかの感覚刺激が来たら、その時は大体が尻が締められているんだからわけないよ。肩をできるだけ緩めて、腹にグッと力を入れて、瞬間息を止めりゃあいいんだ。
(第五章より抜粋)
*1 「中村天風と植芝盛平 氣の確立」藤平光一著では、臍下丹田に力を入れるのではなく気を込めるが正解との説
*2 上記に対する反論
*3 ヨガのクンバカ(kumbhaka:息止め)呼吸法とスペルが似てるが違う模様
*4 ヨガのマハバンダがクンバハカっぽい(バンダ:気の蓋/締め付け)
- ムーラバンダ(会陰/肛門付近):軽く締めて上に持ち上げてキープ
- ウディヤナバンダ(臍下丹田):背骨の方に近づけて柔らかく上に持ち上げてキープ(お腹を引っ込める)
- ジャーランダラバンダ:鎖骨の間に顎を近づけて軽く締めた状態をキープ
※ マハバンダ:3つのバンダを同時に行うこと
結論:
マハバンダをクンバカ(クンバハカ)として取り違えてしまったと思われる
⇨ 水を入れた徳利のように(これがクンバカではなくマハバンダ)、息の出し入れの合間合間に息を止める(これがクンバカ)
⇨ ヨガにクンバハカ(Kumvaphacca)なんてないしクンバカ(kumbhaka)とも違うから、そして天風氏も存命でない現在、(天風会含めて)何が正解か誰もわからなくなってしまった
⇨ ヨガのマハバンダをすればOK(気を込めるではなく、お腹を引っ込める/臍下丹田に力を入れるが正解)
⇨ 伝統的にバンダは、多くの複雑なアーサナや呼吸法やムドラをマスターし終えて、次の精神修行を求める人だけに密かに紹介されるものなので、そう簡単にできる/わかるものではない(三つを組み合わせた「マハバンダ」は上級レベルで実践)
第六章:心の使い方
気が打ち込まれるでしょう、すると気が散るということがなくなるのだよ。気が散るというのは、打ち込まれてないから散るのです。平素何事をするにも気を打ち込んで、気を散らさず、気が纏って人生に生きている人は、どんな複雑なことに出くわしても、澄み切った気持ちで全ての事を何らの醜態なく片っ端からパキパキと片付ける。常に何事、何ものにも対しても気を打ち込んで応接するという心掛けを実行するようにしてごらんなさい。
心を使っているという状態は集中なの。付かず離れずが集中の状態。何ものにも心が持って行かれていないもの。ちゃんと自分の心の中に、ものそのものを受け入れている。集中も一心の状態、傾注も一心の状態で、外見はちょっとわからないが、傾注の状態は向こうへ心を持って行かれた一心なんだ。
結局、はっきりした気持ちになろうとする時、一番最初の前提として、やはり心の掃除を完璧にしなきゃだめだということだ。観念要素の更改が厳粛に実行されてないてえと、心そのものの内容にもうくだらないうじ虫みたいなものがどっさり入っていて、いざ心を纏めて使おうったって、そいつがポンポンポンポン心の表面に出てきてからに、心をいい加減にかき乱してしまうから、はっきりした気持ちどころじゃありません。
無意注意:フッと目に入ったものを見てしまう、犬でも猫でも誰でも持っているもの
有意注意:自分が思った方向に自在に振り向ける注意有意注意力を旺盛にして、心の前に現れたものの方へ心を持って行かれないようにしなきゃいけないということですよ。隙のない人間というのは、目で向こうを見ていても、決して心が向こうに行ってないんだよ。
(第六章より抜粋)
講談「山岡鉄舟」
幕末維新の際の名剣士(当時千葉周作の門下生)の山岡鉄舟と、浅利道場の浅利又七郎義明との立ち合いの講談
⇨ この敗北後、剣禅一如の境地を目指して禅の修行に励み大悟を得る(晩年に無刀流を創設)。江戸無血開城にも大きな役割を果たす。
第七章:体の活かし方
なぜ動物性タンパク質がいけないか
動物性タンパク質は、医者の言う通り消化しやすい。消化しやすいけれど、消化する際に副産物として尿酸という酸が生じる。植物性のタンパク質の中にもこれは入ってるんですよ。けれど、植物性のものを食べてると、血液がアルカリ性になってるから、この尿酸をどんどん分解して、体の外へ排泄してくれてしまうんだ。ところが、動物性の副産物で生じた尿酸によって、動物性のものを食べると同時に、血液が酸性になる。アルカリ性でなくなる。これを医学的に言うと、「アジドージス」。だから何をおいても、人間の体の命を保っている血液は、どこまでいっても弱アルカリ性でなきゃいけない。
本当に人間らしい活動を完全にしたいと思う者は、肉食を控えなさいよ。まず比率を肉食三割にする。植物性のものが七。若い時は別だけど。これを段々段々歳をとるに従って、植物性のものを多くする。八、九、十というふうに。
生命のなくなった死骸の中にできる毒をプトマインというのよ。動物性の食い物と植物性の食い物と、結果として比較にならないほど大きな健康上の差があるのは、このプトマインがあるか、ないかなんです(ライオンなどの肉食動物しか、プトマインを分解する消化酵素「プトマイントキシン」を持っていない)。
食い物の上から分類すると、四種類からなる。第一が肉食動物、第二が果食動物、第三が菜食/草食動物、第四が混合食/雑食。肉体組織の一切から厳格に論定すると、人間は第二の果食動物なんです。古代、原始時代の人間は木の実ばかりを食べてた。
カーリントン(哲学者)
(第七章より抜粋)
「果物は第一に精力が増強する。頭脳が明晰になる。耐久力が非常に余計に出る。それでよく寝られるし、諸事万事においてからに果物を食ってるてえと、体の組織の中の生活力が増進する」
※ Youtubeで要約してくれた方がいるようです。