盛大な人生

書籍紹介/感想

カリアッパ師との問答を通して、瞑想の極意とそのご利益が紹介されています。瞑想とは、坐禅を組んで、「無の境地になればいいらしい(どうやって?)」くらいにしか知らなかったけど、地の声を聞いて、その後天の声を聞けばよいと教えてくれています。とはいえ、それも難しいので、(簡単に無念無想の境地に近づける)ブザー音を使用した安定打坐法を紹介してくれています。

それから、十牛図の解説もあります。第六の図「騎牛帰化」が大切だなと感じました。第五の図「牧牛」まで何とか辿り着いても、慢心することなく研鑽することが必要。

自分ごとで言うと、フィット・フォー・ライフという書籍を読んで、酵素栄養学に基づいたローフード中心の食生活に切り替えて健康を取り戻したのが第五の図「牧牛」。慢心することなく研鑽し続けなかったので、また体調を崩してしまった(調子が良くても悪くても、良い習慣は続けて習慣化し、良い考え方は信念化する必要があった)。下記のカリアッパ師の言葉と共に、もっと早く知っていれば(理解していれば)、後戻りせずに済んだのではと思っています。

ばか。治ったことを嬉しがるような人間だったら凡俗だ。悪い時にそれに負けなかったことを嬉しがらなきゃいけないんだ。何でも無い時に嬉しがるのは当たり前のことだ。ばか。そんな気持ちを持ってると、またぞろ冒されるぞ。病があろうと無かろうと、一生、生きてる間は生きてろ

(第三章より抜粋)

第一章:人生の一番大切な自覚

白隠禅師があれだけの名僧であって、修行中に神経衰弱に罹っています。これを、昔は神経衰弱という言葉が無いから、「禅病」と言った。あの人の罹った禅病の原因なんかもそうなんだ。絶対にできないことを、仏教の教えだからどうしてもできるようにしなきゃいけないと思って努力すれば、努力する程できないもんだから、それが悩みの種になって、ああいうフラフラ病になっちゃったんだ。

人生の求めるもので、できそうでできないことを、できそうだと思って努力して、一番悩んでることに、とにかく多くの人が気が付かない事が一つあるんであります。何だろう?それは、「捨欲」ということなんだ。欲をすてるということなんだ。

釈迦が、ああやってヒマラヤの奥へ入って、菩提樹下で難行苦行したのも、欲がありゃこそだろう。

(第一章より抜粋)

第二章:信念と奇跡

カリアッパ師との問答(シッキム王国のバラモン教最高位者)

「お前ね、お前は現在の体の悪いことだけが頭の中にあるんだ。それじゃあ楽しみも嬉しさも無いだろうな。お前がこうやってここで、親から離れ、故郷から離れて、私と一緒に山の中で修行してるのは何の為だ。悪くなりたい為にしてんのか。このインドで死にたい為にやってんのか。それとも、もういっぺん元のように丈夫な人間になりたいと、例えインドから出られないまでも、ここにいて、その嫌な熱や気持ちをさらりと忘れたい為にやってんのか、どうなんだい」
「そんなこと、お聞きにならなきゃわからないんですか」
「いや、わかってるから、お前に言うんだよ。だけども、お前の現在の気持ちを考えると、どうもどっちが本当かわからないようで、私は迷う。こうやって一生懸命、難行苦行をしてるのも、治りたい為だな」
「そうです」
「それならそれなりに一本でいったらどうだ、それなり一本で。時々お前、治りたい気持ちの中に治りたくない気持ちが入っているじゃないか」
「その意味、どういう意味です?」
「たった今そう言ったじゃないか。お前は朝起きてから晩寝るまで、しょっちゅう頭の中で現在の病と取っ組んで、俺は体が弱い、俺は熱がある、俺は喀血する、何だかんだと、体の悪いことばかり考えてる。治った後の本当に張りきった状態をなぜ頭の中に考えないんだ。現在の病なんか飛び越して、晴れやかな、本当に治った姿を自分の心に描いたらどうなんだ

(第二章より抜粋)

努力っていうのはありがたいもんで、しまいにはね、熱が出ようが、目が回ろうが、目を瞑ってジッと考えてると、ピンピン丈夫な状態であった時のことだけしか頭に出てこない。山の中で一人滝壺の脇に座っていても、そういう寂しいところへ座ってるような気持ちをちっとも感じなくなるまで、そう長い月日じゃありませんでしたよ。そして、一年も経って段々だんだん心の中だけは百花繚乱という気持ちになり得てから、もうどんなことがあっても、自分の気持ちの中に、反対の疑いの気持ちが出なくなったんだな。つまり、信念が強固になったが為なんです。

いま目に触れる全ての物という物は一切合財、宇宙の自然創造物以外のものは、よく考えてごらん、何からできてるかということを。いいかい、もういっぺん言うよ。目に触れる物という物の一切合財の中で、宇宙の自然創造物以外の物は何の力でできてる?

それは全て人間の心の中の思考から生み出された物でしょう。マイクでも、スタンドでも、電動機でも、これでも、それでも。それがそうだとわかれば、あなた方の一生もまた、あなた方の心の中の考え方や思い方で、良くも悪しくも作り上げられる物だということがわかりゃしないかい。もっと哲学的な言い方で言うならば、あなた方の心の中の考え方や思い方が、あなた達を現在あるがごときあなた方にしているのであります。

(第二章より抜粋)

第三章:理想の摩訶力

仏教そのものにもう既に、インドから支那に入った時に、自力教他力教があった。特に日本では、聖徳太子が百済から仏教を入れてから、他力教の方がどうしてもその当時の、いわゆる自分で自分を守る分別の無かった、何事も他人の力で生きていこうとする時代の人間には歓迎されたのも当然でしょう。その当然な民族から歓迎された他力教の仏教の感化をだいぶ現代人は祖先以来受けてて、今でも何かあると、自分の力で自分を救いあげていこう、導いていこうというような、人間としての本当の自覚が無くて、すぐ自分以外の人間の力なり、神の力に頼ろうとする。

理想には信念が必要なんですよ。信念がつかないと、どんな故障がでようと、文字通り万難を突破してもその理想の完成成就へと勇猛邁進しようとする力が、分裂しちまうんだよ。ところが、信念がでると、理想の完成成就へと勇猛邁進させる力がその心に一人でに持たせられると言うより、ついてくる。

立派な理想を持っている者は、何も改めて、何の神様だ、仏教だと、今までの多くの人々が考えているような、お頼み主義の信仰をする必要は無いのであります。現代人の信仰はお頼み主義だもん。そういう信仰は第二義的な信仰で、本当の信仰というのは、造物主である神仏を心から尊敬して、そして自分を人間として生んでくだされた事に感謝を捧げていりゃいいだけなんだ。

(第三章より抜粋)

カリアッパ師との問答(奔馬性肺結核の回復期)

「嬉しいか」
「へえ」
ばか。治ったことを嬉しがるような人間だったら凡俗だ。悪い時にそれに負けなかったことを嬉しがらなきゃいけないんだ。何でも無い時に嬉しがるのは当たり前のことだ。ばか。そんな気持ちを持ってると、またぞろ冒されるぞ。病があろうと無かろうと、一生、生きてる間は生きてろ」

(第三章より抜粋)

第四章:我が人生観(※瞑想についての章)

インドのカンチェンジュンガの麓でのカリアッパ師との問答

ディヤーナ(瞑想)の第一条件は、心を静かに安定していなきゃいけないんでしょう」
「オフコース(もちろん)」
「なら、なぜもっと静かな場所で修行させて下さらないのです?(滝壺の脇でうるさいので)」
「あの場所で、心が静まらないのか」
「あんな場所で心が静まるはずがありゃしませんよ。のべつ、耳が張り裂けそうです」
「あの場所で心が静まらないようなお前なら、どこへ行っても駄目だな」
「でも、そうおっしゃいますけども、あの水の音では…」
 :
「あれですか、先生がのべつ聞いてる天の声というのはどこの国の言葉です?」
「どこの国の言葉という言葉じゃない。声だよ」
「声といって、言葉の声じゃないんですか」
「音だよ。けれど、現在のお前さんのように、水の音ばかり気にしてる耳には、天の声どころか、地の声も聞こえないだろ」
「地の声もあるんですか」
「あるある」
「地の声ってなんです?」
地の声っていうのは、もう一言でわかるじゃないか。地上にある鳥や獣や、風によって木が擦れ合う音、あれが地の声だ
「ああ、そうか」
「それが聞こえるだろう」
「聞こえやしませんよ。あのゴーゴーゴーゴー絶え間なく激しい、高いところから落っこってくる滝の水の音。そんなもん聞こえるはずないじゃありませんか」
「聞こえるはずがないと思ってりゃ聞こえないなあ。試しだ、な、明日っから岩かどで、瞑想の合間あいまに時々、鳥や獣や風の声を聞こうと思って、とにかくその音を掴まえる気分を出してごらん。ま、それからだ、天の声は」

最初のうちはとても駄目なんだ。けど、二、三時間経ってから間もなく、何と微かながらも時々、あの岩、この岩へと飛び交う鳥の声や、遠くの方から豹の声や蝉の声などが聞こえるようになってきたんだ。それで数日の後には、もう滝の音を聞きながらも、他の音がドンドン聞こえるようになってきたんだ。

(半月ほど経って)
「鳥や獣や虫の声はもう立派に聞こえます、聞こうと思うと。けど、先生のおっしゃった天の声というのはどうしても聞こえません」
「聞こえないか」
「ええ」
「そんなはずはないなあ。地の声が聞こえる人間に、天の声が聞こえないはずは無いんだけどもなあ。天の声を聞こうとしてみないんだ」
「いや、してますよ。自分でも驚くほど真剣にやってみてるんです」
「真剣に天の声を聞こうとしている?ほう、それじゃあ聞きたいね。真剣に天の声を聞こうとしてる時、お前さん、水の音や鳥、獣、その他一切の音、聞こえてる?」
「あっ、そいつは気が付かなかった。そいつは気が付きませんでした」
「ほんとから言うとね、どんな音を耳にしても、心がそれを相手にしないと、その時天の声がわかってくるんだよ」
「ああ、そうか。心が相手にしなきゃあ、聞こえるんですね。では、明日またやってみます」

それからその翌日、言われるままに一心に、一切の音の相手をしないようやってみたが、これは駄目だ。とっても難しいんだ。相手にしまいとすりゃあするほど、その相手にしまいと思う事に心が囚われて、なかなか上手くいかないんだよ。さあ、滝の音も聞かないぞ、虫の音も聞かないぞ、何にも聞かないぞ、天の声だぞ--すると、ドンドン、ドンドン聞こえてくる。実際これにはずいぶん困らせられたもんです(三か月ほど)

(半ば諦めてやけくそになった状態で)
それで、いきなり仰向けになっちゃってね、しゃくに触ったから、目を反眼にして空を見ると、熱帯の土地でもヒマラヤの麓は日本の初秋のように晴れて、ところのままにへんぺんと雲が漂っている。その形の様々に、思わず興味を感じて見入っているうち、フッと気付いてみると、耳に色々の鳥、獣、土、風、そらまあ色んな音が絶え間なく聞こえていても、心が何と全くそれから離れて、雲の漂いの中に入って無心でいる自分に気付いた。「あっ、これだ!」と、刹那の悟りともいうべきものを心に感じたんですよ。

(天の声が聞こえなかったので)
「雲を見て、フーッと気が付いたら無心でいたんですけど、無心でいた時に天の声、聞こえませんでしたが」
「ハッハッハッ、聞こえてるのに聞こえないかい」
「えー?」
「それが天の声だよ」
「えっ!」
天の声とは声なき声よ(absolute stillness/絶対のしじま(静寂))

「わかりました・・・けど、もう一つわからないことがあります」
「なんだ?」
「そうしたら一体どうなるんです?・・・いえ、天の声を聞いたらどうなるんです?」
「それまで聞かなきゃわからないほど馬鹿だとは思わなかった」
「けど、わかりません。何と言われても」
「そうか。じゃあ教えてやろう。何の音も聞こえない、その天の声を聞いた時に、人の命の中の本然の力が湧き出るんだ
「本然の力が湧き上がる?ええっ!」
「ま、しかしね、そんな難しいことは後でゆっくり、考えなくてもわかる時がくるからな。それは、事実がお前を頷かせるから」
(しばしば無心になるに従って、グングン体の調子が良くなっていった)

(第四章より抜粋)

第五章:大事貫徹(十牛訓/十牛図の解釈)

  1. 尋牛:牧童が牛を訪ねて深い山の中に分け入っているところ
  2. 見跡:とある谷川のほとりで牛の足跡を発見したところ
  3. 見牛:ようやく牛の半身を見つけたところ
  4. 得牛:牛を捕まえたが、暴れるので逃がしてなるかと引っ張りっこしてるところ
  5. 牧牛:捕まえた牛を飼い慣らして育て上げようとしてるところ
  6. 騎牛帰:背中の上に乗ってのんびりと笛を吹いて牛と共に楽しみながら家に帰れるようになったところ(無心無我/病と煩悶と貧乏が無い状態)
  7. 忘牛存人:牧童と一緒にいた牛がいなくて子供ひとりのところ(純一無雑/晴れてよし、曇りてよし、富士の山)
  8. 人牛倶忘:人も牛も共に忘れちゃった、何にも無い状態(迷いも悟りもない状態/円相/恬淡明朗/颯爽溌剌)
  9. 返本還源:悟って悟って悟り尽くして、元の本善の世界に返ったところ(清浄無垢)
  10. 日鄽垂手:布袋さんが袋さげて、伴人を連れて手を振ってるところ(常に誠と愛でひたすらに、人の世の為になることを言ったり、行って、実際に人生を生きている人の姿)

第八図までは(世の中の人の役に立つ為の)自分を作る用意の為の修行で、九、十図に至って初めて、利他、他人の為に生きる命ができると、こういう訳です。要するに、人間の本心の現実発揮の為、私が五十余年間説いている心身統一法の修行の階段を、それから修行の目的というものをただ一人の牧童と一匹の牛の絵に例えて教えてくれたんだ、と分かってくださりゃ結構です。

(第五章より抜粋)

宮本武蔵と細川公の問答(9.返本源源の解説)

「武蔵殿は、聞くところによると、百回以上も命の取り合い、真剣の勝負をされたそうじゃが、その百回の中で、こりゃ強そうな奴だと思った相手がござったかな」
「これは異なことをお尋ね、百回が百回、皆優れた武芸者のみでございました」
「それはそうでござろう。お身ほどの者と太刀打ちしようとするには、よほどの手だれ者でなければできないはず。しかし、その武芸者と勝負の最中、今度は勝てるかな、ヒョイと負けやしないかと思ったことはござろうか」
「あ、そのお尋ねでござるか。さよう、ござりませんな」
「こりゃまた不思議なこと。人間、命の惜しくないものはいない。まして剣に志す者、この人間の太刀筋、自分よりも上手かなと思ったら、必ずやそこに命ということを考えそうなものだが、相手が強いものばかりと言われた言葉とは裏腹の答え、どういうものでござろう」
「私は、元々が師匠から剣術というものを教わったものではござりません。山の中で手頃の木の枝を切って、それを幾十本となく縄で上から吊るしておきまして、この小枝を下から手あたり次第に殴りつけますと、跳ね返ってまいります。それに当たらない間合いを極めましたのが私の兵法にござります。従って、人と試合をいたします時、命の取り合いをするとか、試合をするかという考え方で太刀打ちはいたしません。ただ、吊るした木の枝から自分が逃れる間合いを図って、それに当たらないようにする。それと同じ気持ちを、人を相手にした時にするだけで、ただ、木よりも人間の方が相手にしやすうござります」
「それは、どういう訳か」
「木の方は恐れを感じません。木それ自身は。恐れは私のみが感じるのであります。けど、人間同士の時は向こうがこっちを恐れます。恐れる為に、こっちからいく太刀を向こうは逃げます。枝から吊るした木は逃げません。それだけに、枝から吊るした木には、勝負で時々私、負けまして、ぶたれますが、人間にはぶたれた事がござりませんから、負けた事がござりません」

(第五章より抜粋)

第六章:真人生の実現

神人冥合というのはね、大自然の持つ神秘の力を十分に自分のものとして、人間の心の働きを超特的に向上して、自己の人生を万物の霊長としていかんなく確保しようというのが目的です。人間が人間らしく生きるのには、何をおいても心身一如で生きなきゃいけないのであります。

人間の心はね、その働きの上から哲学的に言うと、二つの境涯があるんです。

①実我境

  • 無意実我:寝てる時などの状態
  • 有意実我:一切の感覚を超越し、感情、情念を減断した純真の心だけが肉体と精神とを支配している状態

②仮我境

  • 順動仮我:怒ることや悲しむことや怖れることに心が少しも感情的に煩わせられないで、いかなる時にも悠々として泰然と、心に波風立てない状態(積極的な状態)
  • 逆動仮我:人生の出来事の全てにしょっちゅう心が囚われている状態

第一番に知っておきたいことは何だと言うと、「意識(思考)」ということであります。一つのように見えてる意識が、その活動の上から仔細に区別すると三つになる。

  1. 肉体意識(本能心/動物心/植物心):肉体生命を生かす為に必要な働きを行う心
  2. 心性意識(理性心):精神生命の中に存在する理性心から発生する意識/思考
  3. 霊性意識(霊生心):人間の命の本体である霊魂という気体の中にあるもの(霊感/第六感)

第二の心性意識と霊性意識は人間だけしかないんだ。万物の霊長たる我れら人間だけに付与された心で、他のものには無いもの。ただ、理性本位で生きちゃいけないんですよ。理性本位で生きるとね、生きるその人間一人が非常な苦労をするんですよ。人生はねえ、何をいったい本位として生きなきゃいけないかと言うと、霊性を本意として生きなきゃいけない。

無念無想の状態とはどういう状態かと言うと、一口にわかりやすく説明すればこうなるんだ。心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。心が生命の一切を考えない時、もっとわかりやすく言うと、心が肉体を思わない、心が心を思わない時が無念無想なんです。

(第六章より抜粋)

安定打(簡単明瞭に心を霊的境地におく方法)

  • くつろいだ格好になって目を瞑る
  • 辛さを感じない程度の体、ある程度まで長持ちのする格好になる

最初、ブザーの音に引き入れられなさい(ブザーの音が響く)
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この境地に入っている時は有我一念心がブザーにズーッと引き付けられている。このブザーの音が瞬間絶えます。絶えた時、瞬間ではありますが、初めのうちは、ほんの一秒か二秒、シーンとした世界が味わえる。やがてこの境地が長く味わえるようになりますが、最初の間は絶えた瞬間だけ物理現象で、フーッと無念無想になります。

鐘でも同じこと(鐘の音が響く)
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鳴ってる鐘の音に心が引き入れられていきます。段々だんだんに鐘の音が余韻余余情を残しながら、耳から去っていきます時に、そこに無音の玄境、無声の境地が味わわれる。段々に音が小さくなるだろう。その音が聞こえなくなったところに無声の境地があるんだ。

本当の宇宙の姿というものは音なき世界、空の世界なんだ。我々が耳に聞いて、あるいはその他の感覚で感じている響きだとか色だとかと言うのは、この現象界の仮の姿。だから、いつでも心の使い方で自らを空の世界における訳だ。空の世界に驚くべき甦りの力が、溢れるほどたたえられている。そこに心がフーッと寄ると、生命の全体が無限の力と結びつくというのが自然原則だ。

(第六章より抜粋)

※ Youtubeで要約してくれた方がいるようです。

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