心に成功の炎を

書籍紹介/感想

心身統一法に必要な、観念要素の更改/積極精神の養成/神経反射の調節(クンバハカ)について、再度言葉を変えて説明してくれています。

第一章:生きる心構え

理想的な人生を生きる上で、注意の上にも注意しなきゃならないことは、「怒ってはいけないこと」と、「悲しんではいけないこと」と、「恐れてはいけないこと」なんです。怒ったり、悲しんだり、怖れたり、悶えたり、憎んだり、迷ったり、悩んだりして、一番肉体を健康に丈夫に生かそうとするところの血液を濁してしまっているんです。

私が初めてロックフェラーに会ったのは、1947年にアメリカのスター・アンド・ストライプスの記者を集めての第一回目の講演をした時でした。そもそも最初に私が、スター・アンド・ストライプスの記者クラブの招聘を受けたのは、太平洋戦争中(1945年)、私が疎開しておりました茨城県で、B29で不時着した、一人のアメリカ兵(飛行中尉)と出会ったことから始まったんです。

特にロックフェラーが感激極まって、私に即座に来てくれという気持ちを起こしたのは、インドのヨガの哲学の中に、クンバハカ密法というのがあります。本場のインドでもその具体的な方法を教えない、クンバハカ密法の「How to do」を私がわかりやすく実践的に説いてやったからなんです。

(第一章より抜粋)

第二章:絶対積極

何でもない時は矢でも鉄砲でも持ってこいという気になるけれども、健康上に故障があったり、運命上に少しでもままならないことがあると、そういう場合こそ、よりいっそう心の態度が積極的であらなきゃならないのに、すぐ青菜に塩みたいになってしまう。こういうのを積極的態度というんじゃないんですよ。

積極精神というのは、何か強気な気持ちでという意味に捉えて、がむしゃらに強がったり、強情はって頑張るということがそうだと思っている人、多かないですか。こういうのも、もちろん積極精神の一部だと言えないことも無いけれど、これはあくまでも消極と相対しているものだな。だから、相対的な積極なんであります。私が教える積極精神と言うのは、消極というものに相対した積極でなくして、絶対的な積極のことなんです。

けっして張り合おうとか、対抗しようとか、打ち負かそうとか、負けまいといったような、そういう気持ちでない、もう一段高いところにある気持ち、境地、これが絶対的な積極なんですぜ。どんな目に遭っても、どんな苦しい目、どんな思いがけない大事にあっても、日常と少しも違わない、平然としてこれに対処する。これが私の言う積極的精神なのであります。

1904年、ロシアのコザック騎兵に捕まり、今これから処刑されるという時でも、死ぬことは恐ろしいとは思わなかった。1906年、伊藤博文さんが朝鮮総監をされていた時代、私は陸軍から高等通訳官を拝命しまして、そして任務について三か月目に大喀血をしたんです。「私の兄貴もそれと同じ血を吐いて死んじまいました」と聞いた時、フゥーッとおののきを感じてしまって、歩けなくなってしまったんです。今すぐ死ぬ訳ではないのに、落ち着きを失い、おどおどした、気の弱い人間になっちゃった。

「昔の私はこんなに意思の弱い人間じゃなかったんだけれどもなんで今の俺はこんなに意思の力が弱くなったんだろう」
意思の力の弱ったのは、そこに三つの大きな原因があるということがわかった。
①潜在意識の中に非常に消極的な観念要素が知らない間にうんと溜まっちゃったということ ⇨ 観念要素の更改
②平素の人生を生きる場合の精神生活態度が、これも気がつかないとは言いながら、いつも臆病で引っ込み思案的なものであったということ ⇨ 積極精神の養成
③人間が生きていく刹那、刹那に、避けえられない感情や感覚のショックや衝動が、神経系等の生活機能に手酷く悪い影響を与えているということ ⇨ 神経反射の調節

(第二章より抜粋)

⚪︎念要素の更改
人間の生まれた時の心というのは、弱くもなきゃ強くもないんですよ。無色透明でピュアなものなんであります。それが物心つくと、いわんやまして、現代のようなマスコミ時代になると、耳から目から、あらゆる方面から入ってくる消極的な暗示によって、現在かくあるが如く、あなた方を弱いものにしてしまうんです。

必ず毎晩、寝がけにお風呂に入るでしょう。それよりも大事なことは、心の垢、汚れを落とすことなんです。寝付くまでの間は、どんなことがあっても心に垢、汚れはつけない、磨きたての真珠を薄絹に包んだような本当の綺麗な気持ちで寝床にいなさいよ。思うたびに考えるたびに、なんとも言えない心に小躍りをするような喜びを感じることだけをかんがえるようにすればいいんです。

⚪︎積極精神の養成
何べん言っても決して言い足りないというほど感じられるが、人間が人生に生きる場合に使う言葉を、選択しなきゃ駄目なんですよ。増えてなことや嫌いなことを「俺は弱いんだよ」と言いますね。「俺は酒に弱いんだよ」「女に弱いんだよ」とか。何かそれをどうしても言い表したかったならば、「俺は強くないんだよ」、これでいいじゃねえか。「弱い」より「強くねえ」ほうが、「強い」という言葉があるだけでも、自分の気持ちの中にいい響きがくるんで、「もの言えば唇寒し秋の風」「丸い卵も切りよじゃ四角」「ものも言いよじゃ角が立つ」だろ。

⚪︎経反射の調節(クンバハカ)
あなた方は今まで、全ての感情や感覚の衝動、刺激を心で受けて、驚き、あるいは怒り、あるいは悲しんでいただろ。それを今度は腹で受けるようにする。もう少し詳しく言うと、何かしらの感情や感覚の衝動、刺激があったならば、まず第一番に腹に力を入れる。次に忘れてはならないのは、それと同時に肛門を締めて肩を落とすこと。わかるかい?つまり、肩と肛門と腹の三位一体。ヨガでは「クンバハカ」といって(ヨガのマハバンダのことだと思われる)、最も神聖な状態を言うんです。腹に力を入れて肛門を締めて肩を落としていると、どんな大きな衝動や刺激がきても、少しも心に動揺を感じないばかりか、体に少しも変化をおこさない。

昔の武士が「腹を練れ」と非常にやかましく言ったのは、このへそを中心とする腹筋神経から脊髄に連絡している全身神経系等の動乱を防ぐという、これがゴールデンキーだからなんです。

(第二章より抜粋)

第三章:強い生き方

カリアッパ師との問答

「変なこと聞くようですが、食い物は極めてカロリーの共しいもので、それで皆さん、先生をはじめとして、病らしい病を持った者は一人もいないんですが、これはどういうわけでしょう。この土地の人間に恵まれた自然の恩恵でしょうか」
「生き方の違いか」
「生き方の違い、それは何の意味です?わかりません」
「そうか。それじゃあ一言いって聞かせよう。俺はね、お前みたいに体で生きていない」
「えっ、何で生きてるんですか?」
「俺たちは気で生きている。体で生きてるというと、食い物だとか、いや何だとか、肉体に対する色々の条件を考えるだろう。俺たちはもっともっと食い物が乏しくってもいいんだ。気で生きてるから」
「わかりません。その意味」
「そうだろうなあ。それがわかりゃ、お前はそんな馬鹿な病、患ってないはずだ。段々にわかるだろう。わかるまでいつまでもいろ」

(第三章より抜粋)

それまで私は、肉体が自分だと思ってた。哲学的にいうと、肉体を自分だと考える人のことを本能階級の人というんです。それから精神が自分だと考える人のことを理性階級の人という。どっちが気楽に生きられるかと言えば、野蛮人の方が気楽に生きられるわね。なまじ理性があると、もう既に二千年の昔に孔子が言った通り、「いよいよ極めていよいよ苦しみ、いよいよ知りえていよいよ迷う」という状態になっちまうんだ。

霊魂という気体が人間の生命の根本中枢なんだ。そして、霊魂が、人間を作る際に、よろしいか、原動力となっている人間の脳髄の中の間脳というものに入るんです。間脳から心を通じて肉体へ宇宙エネルギーというものが入る。さらに大事なことは、普段私がいう通り、心が積極的でなければ、この宇宙エネルギーが、生命の中に十分豊富に受け入れられないんです。だから、神経過敏な人がどんな養生しても、肉体が完全に生きないということが、これでわかっただろう。

自分というものの正体は、形ある肉体でもなければ、観念で考えられる心でもなく、全然見えない霊魂(気)だと、こう考えるのが一番いい。

けれど病になると、その考え方が、同じ感覚でも非常に自分の心持ちでもって消極的になっちまうだろう。そうすると、パーッと宇宙エネルギーを受け入れる、口が塞がっちまう。この口が塞がっちゃったんじゃ、肉体の持ってる力というのはたがが知れているから、すぐにくたびれちまう。万物の霊長たる人間であろうと、肉体の持ってる生きる力には制限がある。心が無限大だというのは、宇宙エネルギーに通じてるからなんだ。だから、どこまでも積極的でいけというのは、これでわかったろ。どこまでもプッシュでいけというのが。

(第三章より抜粋)

第四章:心の正体

前までの話では、ただわかりやすい言葉で、あなた方に理解づけただけで、本当のことをいうと、自分は肉体でもない、心でもないという心持ちが、信念にならなきゃいけないんです。

一口に心、心といっても、その働きの上からみると、大まかに区別しても二色ある。一つは、肉体に属している心。それからもう一つの方は、精神生命に属している心。これをまた詳しく、細かく分けていくと、肉体の方の心が三つ、精神の方の心が二つある。肉体の方の心の三つというのは、第一が物質心、第二が植物心(自律神経を支配)、第三が本能心。精神生命の方の二つというのは、第一が理性心、第二が霊生心。

(第四章より抜粋)

第五章:理性心と霊性心

理性心というのは、早い話が、何の力もなく、ただ小理屈こねて、べらべら、さみだれ小言のようなことばかり言い続ける家庭教師みたいなものなんです。本能心の方は、始末におけない、親の言うことも聞かない、わがままな子供みたいなものです。この理性心には、本能心を統御したり、いわんや、整理する力は、これから先もないんです。

それじゃあ、理性心と本能心を監督していくものは何かというと、それは「意思の力」であります。人間の本体である霊魂の中から出てくる意思というものが、本当にこれを監督する権能を持っているんです。観念要素の更改を情熱を燃やしてやりながら、積極観念の養成神経反射の調節を本当に真剣にやってごん。黙ってても意思の力が出てくるんですよ。

人間ならばこそ、どんな場合にも間違いなく人生を生きていかれる立派な認識力を持ち、統御力を持っている心があるんです。それが最後の霊性心なんであります。それじゃあ、どうすれば出てくるか。わけありませんがな。雑念、もう年を常に心の中にできるだけ燃やさないようにすることだ。霊性心は、心が純一無雑の時に出てくる。

今まで教えた方法(観念要素の更改/積極観念の養成/神経反射の調節)を一生懸命にやって、無念無想になる安定打という、これも私が発見した化学を応用した特別な方法ですが、これをやるとね、そりゃもう自分でも不思議なくらい、頭が違ってくるんだ。頭が違ってくるというのは、精神に異常が出てくるんじゃないですよ。現在より優れた頭になるということです。

それは第一にね、この世の中のややこしさを感じなくなるんだ。そりゃあね、昔、まだ私がこういうことを知らなかった時分に、何かの念の入った本でも読んでるとか、あるいはまた、書き物でもしてる時に、わきでもって子供が遊んでたり、また物音を激しくすると、すぐ怒ったもんです。「うるせえな、本当にもう、いま一生懸命書いてんじゃねえか」という風に。

ところがね、ありがたいかな、こういう風な修行をしてからというものは、どんなうるさいところにいようと平気なんですよ。何とも思いやしない、自分の心が。心が関係しなかったら、何とも思いやしないんですから。そうでしょう。「心ここにあらざれば視れども見えす聴けども聞こえず」。そうなって初めて、人生というものは、どこに行っても、本当に安心立命の大境涯で生きられる訳なんです。

(第五章より抜粋)

第六章:勘をよくする

認識力の養成
第一に、「官能の啓発」
第二に、「観念要素の更改」と「積極精神の養成」
第三に、「神経反射の調節」

「官能の啓発」というのは、つまり、「勘」をよくするということなんです。勘をよくするというのをわかりやすくいえば、「五官の感覚の機能を正確、優秀にすること」なんです。

では、どうすれば感覚器官を正確に使用する修正を現実につけられるか。まず第一に、諸事万事に応接する時に、「はっきりした気持ちでやる」ということなんだ。これは「有意注意力」を集中するという意味なんだが、これは精神統一の修得には欠かせない条件だったね。

さらに、官能を啓発する為には、五官感覚に関する理解とその修練も必要なんです。

  • 触覚:真っ暗闇の中で、十数個の黒碁石の中に白碁石を一、二個入れて、その中から触覚で白石を取り上げる修練をする
  • 視覚:後ろ向きに座って、他の人に雑然と不規則に品物を散在させてもらい、振り返ってその品物を一瞥すると素早く後ろ向きに戻り、目に見たそのままの品物を言い当ててみる
  • 聴覚:電車の中で人々が話す言葉の中で一番聞き取りにくいような小声の会話だけを耳に入れる努力をする

そして、以上の三感覚作用を修練していけば、他の臭覚や味覚の作用も、特別に修練せずとも、だんだんと、その側面的誘導を受けて優秀になるんです。

それと、既に教わった「観念要素の更改」と「積極精神の養成」、そして「神経反射の調節」をやれば、自然と人間の感覚器官の本然の力が出てくるんだ。この性能が完全に出てくるようになると、いわゆる第六感以上の心の働きが出てくる。

(第六章より抜粋)

第七章:虚心平気

虎のいる檻の中に入った柳生但馬守と沢庵禅師の話し

第八章:生き生きと勇ましく

心の作用を行う神経系等について説明をすると、神経系等は、二色あるんだ。その組織というのを解剖的に考えると、中枢神経(脳脊髄神経)と自律神経と二色ある。

人間の脳髄は三つ

  1. 大脳(五官感覚を受け取り、知覚が作用する)
  2. 小脳(反射運動(学習した処理を実行))
  3. 延髄(反射作用(大脳の支配を受けない)/反射神経運動(無意識的な筋肉運動))
(第八章より抜粋)

第九章:心に成功の炎を-天風訓言

※ Youtubeで要約してくれた方がいるようです。

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